大判例

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最高裁判所第一小法廷 平成5年(行ツ)29号 判決

岐阜県各務原市蘇原申子町一丁目三番地

上告人

小林幸市

右訴訟代理人弁護士

大場常夫

岐阜市加納清水町四丁目二二番地の二

被上告人

岐阜南税務署長 大村政敏

右指定代理人

須藤義明

右当事者間の名古屋高等裁判所平成四年(行コ)第七号更正決定等取消請求事件について、同裁判所が平成四年一二月二日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人大場常夫の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断及び措置は、原判決挙示の証拠関係及び記録に現れた本件訴訟の経過に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立って原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 小野斡雄 裁判官 大堀誠一 裁判官 味村治 裁判官 三好達 裁判官 大白勝)

(平成五年(行ツ)第二九号 上告人 小林幸市)

上告代理人大場常夫の上告理由

一1 上告人の主張の要旨は、事業用資産の買換特例の適用が本件の場合には認められるべきであるということにあり、論点としては(一)税務相談の法的性質、(二)税法と信義則を問うものである。

2 上告人は、本件譲渡土地を、事業用資産の買換特例の適用があるものとして譲渡したものである。ところで、通常人であれば、その所有する重要なあるいは財産的価値のある資産を売却処分すれば、それに伴って税負担が生ずることがあるという一般的知識を有しているものである(公知の事実といえる)。また、その所有する重要なあるいは財産的価値のある資産を売却処分するには、それに足りる売却処分の動機と売却処分の必要性ないし合理性が存在しなければならないことも自明の理である。原判決は、この公知の事実、自明の理を一顧だにせず、皮相的事象のみを捉えて判断したものである。

二1 上告人は、本件取得土地を購入するにあたり、その購入資金を訴外幸伸金属株式会社から借入れたものであるが、その借入れの精算のため、本件譲渡土地の売却を思い立ったのである。しかしながら、借入金の精算とはいっても、上告人と右訴外会社との関係は同会社の代表者を上告人とするものであるということから、時間的にもその他のあらゆる状況下においても、是が非でも精算をつけなければならないというものではなかった。逆に、上告人の一存の考えの中にのみ精算をつけたいという希望があったにすぎないのである。このように、本件譲渡土地の売却処分の動機としては、あくまでも上告人の主観的希望のみにあり、他から強制されたり、あるいは他から容喙されるような事情は全くないものである。このような動機の下において始まった本件譲渡土地の売却であれば、当然にその処分によって生じるであろう税負担は回避されることになるのである。

2 上告人における本件譲渡土地の売却の必要性は右に述べた上告人と訴外幸伸金属株式会社との間の精算にある。しかし、この必要性は、前述したとおりの動機に基づくものである以上、その動機に導き出される必要性も同様のものとなる。すなわち、上告人の本件譲渡土地を売却処分する必要性は、その売却処分によって生ずるであろう税負担を負ってまではない、ということになる。

原判決は、上告人の本件譲渡土地の売却処分の必要性として、大垣共立銀行各務原支店(以下、大垣銀行という)からの借入金の返済を挙げるので、これを検討する。

(一) 原判決の根拠とするものは、直接的には、乙第一三号証である。第一審判決が「しかしながら、乙第一三号証によると、原告は、同銀行各務原支店に対して、借入金の返済を早急にしなければならない立場にあったことが認められ、このことは、同支店の支店長が本件譲渡土地の売却の斡旋をしたこと及びその契約が同支店で行われたことからも明らかである」と判示し、原審が「右売却を当時の控訴人の資力の程度を知る明確な資料がない本件において」と判示していることは、いずれも、上告人に大垣銀行からの借入金があり、その返済のために本件譲渡土地を売却処分したと認定しているのである。すなわち、本件譲渡土地の売却処分の必要性は、大垣銀行からの借入金の返済にあるとするのである。

(二) 第一審判決に対しては、原審の準備書面で述べたとおりである。すなわち、

(1) 乙第一三号証は「一般貸出先案件照会状」という表題が示すとおり、銀行内部の処理に関する照会であるにすぎない

(2) 照会を受けた各務原支店の代表者である支店長は回覧すらしていない

(3) 照会を受けた各務原支店は、照会に対し何の回答もしていない

にもかかわらず、第一審は「原告は同銀行各務原支店に対し、借入金の返済を早急にしなければならない立場にあった」と認定しているのである。第一審は乙第一三号証から「原告は」としているが、このことだけを捉えてみても、第一審の採証方法および事実認定の杜撰さを端的に表しているものといえる。しかも、第一審は、乙第一三号証の反証である甲第一号証に対し、何の証拠判断も加えていないのである。

(三) 原審は、上告人の右のような主張に対し「売却当時の控訴人の資力の程度を知る明確な資料がない」としているのであるが、これは第一審の右認定を婉曲的に是認しているものである。しかし、上告人は、本件譲渡土地の売却処分の動機およびそれとの関連における上告人の財産状況を立証せんとして証拠申立をしたにもかかわらず、原審はこれを排斥した上で、右のような認定をしたのである。しかも、原審において「知る明確な資料がない」としているのは、上告人の立証活動を排斥したことと矛盾するだけではなく、「的確な資料がない」とするならば、少なくともその立証を促すべき訴訟指揮をするべきである。このいずれもしないで、漫然と「明確な資料がない」とすることは、原審の訴訟手続として重大な欠陥がある。

(四) 上告人には本件譲渡土地を売却処分する動機も必要性もない。ましてや、本件更正処分にいうような五六〇〇万円もの税金を支払ってまでも売却処分する動機も必要性もないのである。

第一審および原審のいうように、仮に、大垣銀行から借入金があり、その返済の請求を受けていたとしても、一般的に、継続的な銀行取引関係があり、直ちにこの関係を精算しなければならない特段の事由がない限り、銀行としては一括して返済を求めることはありえず、ましてや、所有不動産を売却してまで返済をさせたり、そのための仲介をするというようなことは、銀行業務上ありえないことであり、これは銀行取引実務の常識といえる。もし、第一審や原審のいうような状況にあるのであれば、銀行としては売却仲介というような行為を採るまでもなく、競売等によって回収を図っていくものである。このような銀行取引慣行(これは公知の事実といえる)を全く無視してまで、上告人に本件譲渡土地の売却処分の動機、必要性を認定している第一審及びこれを是認している原審は重大な事実の誤認があり、この誤認は判決の結果に影響を及ぼし、原判決を取消さなければ著しく社会正義に反することになる。

原審の理屈によれば、一括返済を求られる程資産内容の悪いものに対し、五〇〇〇万円を超える税負担をさせてまで、返済を強く求める結果となるが、このような高額の税負担をさせてまで返済を求めるということがいかに現実から遊離し、かつ、矛盾しているかかは明らかである。

3 上告人の本件譲渡土地を売却処分する動機も必要性も、大垣銀行から借入金の返済を迫られていたということに求めることは、ひいては、被上告人職員との間の相談および職員からの教示の存在を否定するが為である。すなわち、相談、教示を持ちだされるまでもなく、上告人独自の動機、必要性から本件譲渡土地を売却処分したという結論を強引に導き出すためである。

(一) 被上告人は、本事件において、一貫して上告人と被上告人職員との相談の存在を否認しているものである。被上告人は、自らが処分庁となす異議決定に対しては、当然のこととして相談の存在を否定しているが、不服審査庁の下においては、否認したが逆にその主張は認められるに至らなかったのである。にもかかわらず、本事件においても、相談の存在を否定しにかかったのである。このように、被上告人は、自己の不利益となる事実については、他に客観的、合理的な資料があることを知っていながら、徹底的に隠蔽せんとしたのである。このような意図の下にある被上告人においてなされた調査、作成された資料を証拠として積極的に事実認定の材料として使用するには、その採用使用にあたり、相当な合理性がなければならないところである。

にもかかわらず、第一審、原審とも何ら意に介することなく証拠としているのである。これは、採証方法の誤り、事実認定の誤りを惹起し、引いては社会正義に反する事実誤認という結果をもたらしているのである。

(二) 第一審、原審とも、相談の存在は認めている。これとても上告人の詳細を極めた当時の状況説明から、その存在を否定することができなくなった結果として、漸く認めるに至ったものである。全体から見て、上告人の供述から認定した事実はこれだけである。しかしながら、上告人の供述は終始一貫して変更するところがない。変更したと見られるのであれば、それは質問者の特定の意図のもとでの質問内容、質問方法によるものである。すなわち、前述のとおり、相談の存在を何とか隠蔽せんとする意図の下に、それに沿う供述をえるべく質問をしていることに起因しているのである。このような意図の下に作成された文書として提出されているのが、乙第四号証、乙第六号証、乙第一一号証である。しかし、第一審も原審も、これらについて、右について証拠判断することなく証拠として採用しているのである。このような偏った意図の下に作成された証拠によって認定された事実によって結論を出している原判決は、事実認定に誤りがあることは明らかであり、その誤りが取消されなければ、社会正義に反することになることも明らかである。

4 原審は、上告人と被上告人職員との相談の存在については積極的に認定しているが、教示の存在については認定しているとはいい難い。

(一) 第一審は、乙第二号証、乙第四号証、乙第六号証、乙第一一号証、原告本人尋問の結果を引用して、被上告人職員は「各務原の山林はできない」「事業用資産の買換えの特例の適用については、所得が上がっている証明があれば買換資産となる」旨答えた、と認定している。

(二) 原審は、第一審と同じ証拠を引用して「控訴人供述等をもって控訴人主張のような趣旨の教示がなされたものということはできない(この判示部分は非常に曖昧で、教示が存在しなかったとも、教示は存在したが、その内容が控訴人主張のものとは異なるものであるとも読める)」と認定した。

(三) 同一証拠を引用して全く相反する事実認定をするには、それ相当の証拠判断、理由がなければならない。原審はこれについて何も触れていない。

5 ところで、相談内容およびそれに対する教示について、原審はまず「買換の特例は、譲渡資産と買換資産の双方について…いうまでもない(措置法三七条参照)」とし、これを前提として「控訴人は本件取得土地の所在を右職員に具体的に…明確な回答をなし得ないことは明らかである」と結論づけている。以下、これを検討するが、これは右法条の解釈適用を誤ったものである。

(一) 原審は「税務職員において買換えの特例の適用の有無について的確な回答をなし得ないことは明らかである」としている。しかし、職員は上告人の事業用資産の買換特例の適用の有無を前提とする質問に対し、「山林の場合は各務原市の山林はできない」「各務原市の山林でも、所得が上がっている証明があれば買換え資産となる」と教示しているのである。

(二) もし原審のいうとおりであれば、職員の教示は「措置法三七条の適用を受けようとするのであれば、譲渡資産と買換資産の双方について場合を限定しなければならないので、その質問だけでは答えることができない」ということにならなければならない。しかし、職員は前述のとおりの内容を教示しているのである。職員は、特例に関する質問であることを十分に認識した上で、右のように教示しているのである。原審は、職員のこの認識およびそれを踏まえた教示を全く無視して、単に措置法三七条の抽象的法解釈をしているにすぎないのである。この抽象的法解釈を前提として、職員の上告人に対する教示がどのような意味、効果を有するのかが問われているのに対し、原審はこれに対し何ら具体的に判断していないのである。すなわち、原審は、措置法三七条は「こう解釈すべし」ということをいうに止まっているだけで、「こう解釈されることを前提として本件の場合にこうなる」という判断をしていないのである。原審は法案の解釈適用を誤り、かつ、判断の漏洩がある。

(三) 原審は、更に、上告人が職員に本件取得土地について具体的に述べたことはないことを挙げて「このような事実関係の教示がされただけでは、税務職員において買換えの特例の適用の有無について的確な回答をなし得ない」としている(「このような事実関係の教示がなされた」とするが、教示されたという事実関係が何か不明である)。この原審の判断も、職員が「各務原の山林はできない」とか「事業用資産の買換えの特例の適用については、所得が上がっている証明があれば買換資産となる」旨教示していることを全く看過しているものである。すなわち、「的確な回答をなし得ない」はずであるのに、職員は右のように教示しているのであるから、この教示を「回答をなし得ない」こととの対比において、いかに解釈するかが求められている答えであるはずなのに、原審はこの疑問に何の判断も加えていないのである。

(四) 原審は「本件取得土地の所在を含む買換資産…問答の域を出ないものであるとみるのが相当である」ので「買換えの適用があるとの教示を得た」ということはできないとしている。しかし、上告人の質問に答えた職員は、上告人の質問の意図が事業用資産の買換特例の適用の有無であることを十分に認識した上で、教示しているのである。すなわち、抽象的、想定的なものとしての質問ではなく、具体的、実質的なものとして質問を受けて教示しているのである。原審の判断は、あるべき姿としての教示、措置法三七条に沿ってなすべきであるという理想的な教示をいっているにすぎず、それを前提として「問答の域を出ない」ので教示を得たとはいえないとしてるのにすぎないのである。

6 原審は「税務相談は、税務行政の円滑なる推進という目的を達成するための行政サービスの一環としてなされるものである」と判断している。

(一) 原審の右判断は、税務相談とは、要するに、税務当局が税務処理を円滑に行うため、換言すれば、税務の目的を達成するために税務当局のために存在するということに帰着する。そうであれば、「相談」でもなければ「サービス」でもなく、単なる税務当局の一方的、独善的意見の押し付けでしかないことになる。(因みに、「相談」とはどうすればよいかなどについて、意見を述べ合ったり、意見を述べてもらったりして考えること。「サービス」とは接待、奉仕。いずれも国語辞典)

(二) 納税者と徴税者との関係については、憲法の基本原則である主権在民の民主国家を前提とする限り、税制度および税法に関する解釈はあくまでも、徴税者の立場、論理によるのではなく、納税者の立場、論理によってなされなければならないことは自明の理である。すなわち、徴税者の立場に立った、できうる限り多額の税収を、最も抵抗の少ない方法で、効率よく収納するというような、結論を導き出すような考え方であってはならないのである。

(三) 右を税務相談にとは何かということにあてはめた場合においても、相談は、相談者すなわち納税者のために存する制度とすべきであり、その相談の効果は納税者の利益のためになされたと解されなければならないのである。従って、税務相談を原審のように解することは、徴税者の立場に立って税務相談を捉えたものであって、その解釈を誤ったものといわざるをえない。

(四) また、税務相談を原審のように解することは、納税者の有する税務相談というものに対する考え方と全く反することであり、納税者の税務相談に対する信頼を裏切ることになる。すなわち、納税者たる一般国民(税務に関する知識を有していない者というべきである)は、徴税するだけが税務当局の職務であるとは考えておらず、税務に関する国の専門機関であると考えているものである。換言すれば、税務に関する疑問に対する適切なる対応がなされる役所である、と考えているのである。もし、原審のいうようであれば、税務当局はそのことを積極的に納税者に告知すべきであり、そうすることによって国民の右の期待は初めて裏切られることがないようになるのである。しかるに、税務当局は、そうしないばかりか、逆に税務相談に関与しているのである。税務当局のこの姿勢こそ、原審と異なる立場にあることを、税務当局自体が是認していることといわざるをえない。

(五) 原審の税務相談に関する判断は、理論的にも、国民感情からも、税務当局の対応から見ても、誤っているものといわざるをえない。誤った税務相談に関する判断を前提とする以上、その結論も自と誤ったものとならざるをえないことになる。

7 原審は「一般に、税務職員としては…説明をするまでの義務はないものというべきであり」とする。

(一) 確かに、一般的には、「あらゆる予想される事態を前提とした説明」をすることまでは要求されないであろう。何故ならば、「あらゆる予想される事態」等は、誰でもが容易になすことができないからである。だからこそ、申告後において、税務当局からの税務調査の必要があり、そこで徴税者と納税者の意見の調整が図られるのである。原審は、実行することが不可能とまではいかなくとも、著しく困難な「あらゆる予想される事態」なる事象を捉え、それを前提として、職員の相談に対する義務およびそれに対する責任を回避するための理由付けをしているにすぎない。このことにおいて、原審の判断は誤っているといわざるをえない。

(二) 仮に、原審のように義務がないとしても、本件においては職員は、上告人の質問に対し教示しているのであるが、その教示自体が、特例の教示としては誤ったものであったのである。特例は、原審もいうとおりのものであるが、職員の教示は、それ自体においてすら特例の適用を受けられないものである。すなわち、上告人の質問の内容、その過不足にかかわらず、教示自体において特例を受けることができることを内容としているのである。換言すれば、上告人の質問が適切、妥当であったとしても、教示は、そもそも特例を受けることができないことを看過して、受けることができるとしているのである。このことは、原審のいう「義務」がないということと、教示の誤ったこと自体に対する責任追求とは、全く次元の異なる問題であるということを忘れて議論し、結論付けていることになる。義務のあるなしにかかわらず、誤った教示をしている以上、その誤った教示に対し責任を負うことは、教示、それ自体に対して義務があることとは別問題である。原審は、これを同一のものと混同して判断しているのである。

8 原審は「税務当局が行う税務相談が、却って誤解の原因となりうることを防止する」としている。

(一) これは、相談自体が誤解の原因となることを認めていることを前提としているといわざるをえない。もし、税務当局が、そのおそれがあると考えるときは、それを防止すべき何らの手段をとる立場にあることを意味する。例えば、相談を受けるに先立ち「あくまでも相談者の話しを前提とする限りにおいて教示するものである」というような説明をすべきことになるのである(聞くところによると、相談を受けるにあたって、このような趣旨の告知をするように指示がなされている)。このような事前注意を告知することなく漫然と教示すること自体に税務当局の落ち度がある。この点について何の論理も加えることなく、相談すべてに責任なしとすることは、相談の法的責任に対する判断を誤っているものである。

(二) 相談を受ける者は、自分の都合のよいことだけを質問し、自分に不都合な点を敢えて告知しないということもあると思われる。しかし、相談を受ける者は、そのようなことを察知する能力があって相談を受けているはずであり(そうでなく、全く相談を受ける者に相談に対する知識がないならば、相談を受けるということ自体が責任発生原因となる)、その能力を駆使してもなお誤解を与えるおそれなしとしない場合には、前述のような事前注意をすべきである。相談を受けるということには、それ自体において当然にこのような注意義務が生ずることになるのである。

(三) 全くの素人が漠然と話を聞くのではなく、少なくとも相談という形式をとるということは、そこに何らかの義務が生ずることは当然である。これは、いわゆる資格のある専門職に限らず、職務の一環として、あるいは職務に付属して相談を受ける立場であっても同様である。原審の判断は、相談の法的意義を考慮することなく、相談を、単なる素人の単なる世間話程度のものと捉えているにすぎないのである。

9 以上のとおり、上告人が本件譲渡土地を売却処分したのは、あくまでも被上告人職員の教示が動機となってしたものであり、この動機を原因として売却処分の必要性が惹起されたのである。教示によって、特例が受けられる。すなわち税負担の免除があるということによって、本件譲渡土地の売却処分の決定に至ったのである。原審は税務相談とそれに対する教示に関する事実について重大な誤りをしているのであり、その誤りは取消されなければ、著しく正義に反することになる。また、相談、教示に関するその余の判断についても、訴訟手続の重大な違反、法令の解釈適用の重大な違反があることは右に述べたとおりであり、当然に取り消されるべきである。

三 原審は、信義則の適用については、何の判断をしていない。

1 原審は、相談と教示について誤った認定をした結果、信義則については何の判断をも示していないのであるが、相談、教示について誤りがあることは前述のとおりであるので、当然に信義則についても判断すべき立場にあるものである。

2 税法においても信義則の適用があることは論ずるまでもないところである。税法といえども、法体系の一部を形成するものである以上、法理論の原則である信義則が排除される理由がいささかもないことは当然の理である。税法という特性との関係から、適用においてその特性をいかに捉えるかという問題が残るのみである。

(一) 税法の分野においては、公平の原則ということがいわれている。しかし、この公平もあくまでも納税者側に立った公平をいうのであって、徴税者側に立ったものをいうのではない。すなわち、前述したとおり、主権在民の民主国家で、かつ、自由社会における税制それ自体が、あくまでも徴税側の都合によって推進されるべきではなく、納税者側の論理によって行わなければならないということは疑う余地のない自明の理だからである。端的にいうならば、納税者側が、このような場合には課税することが誤っていると考えるならば、その考えに沿った運用がなされることが公平であるということになるのである(税制における主権在民)。

(二) 本件においてこれを見ると、

(1) 税務当局に誤った教示があったこと(誤ったというものの中には、相談に対応する教示ということと、教示それ自体の誤りというものがあることは、既に指摘したとおりである)

(2) 売却処分という課税対象行為自体に対する教示であるということを問題とすべきことになるが、(1)については、前述したとおりである。

(三) 過去の判例を見ると、信義則の適用が問題となっているものは申告に関するものであり、それについては信義則の適用が否定されている。これは、公平の原則から見ても、課税対象行為自体は納税者の判断でしていることからして、妥当な結論ということができる。しかし、本件は申告に関するものではないのである。すなわち、課税対象行為自体を納税者の判断でなした以上、その結果ともいうべき申告という手続によって納税が回避されるということは許されることではないからである。納税者側の論理から見ても、手段によって回避されることは、まさに公平に反することになる。しかし、課税対象行為の取捨選択判断にあたり、徴税者の教示がある場合には、過去の判例と同一に論ずることはできない。何故ならば、納税者は徴税者の教示に従って課税対象行為をしているからである。納税者とするならば、徴税者の教示に従った行為に対し、後になって課税処分を受けるという結論に対しては、許されざるものと考えることが公平であるというべきである。

3 信義則の適用があれば、当然に取り消されるべきであるにもかかわらず、これを判断することなくなした原審は、当然に取り消されることになる。

四 本件は、右に述べたとおり、税務相談とは何か、教示とは何か、税法における信義則とは何かを問うものである。御庁において、右の点について明確な判断をし、上告人に対する理不尽な課税処分を取り消す結論に至ることを強く要求するものである。

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